昭和42年2月2日 夜の御理解 №42-011
今日、私は夕方から椛目の一番上に、篠原さんという方がおられますが、まだ、48歳と言いますからお若いんですが、本当に健康の方でしたけれども、急に病を負えられて、そして、お国替えになられました。で、私はあの、ちょっと、お悔やみ方々、まあ、参りましたのですけれども。もう、本当にあの、気丈な人というか、健気なというか。その、おばあちゃんが、もう、84歳だそうですが。
それは、もう、おばあちゃんでも、奥さんでも、もう、しっかりしておられましたね。(お子さんも?)涙一滴も見せられないといったように、まあ、気丈な方でした、おばあちゃんなんかでも、本当を言うたら、もう、たった一人息子ですからね。一人息子の、まだ子供さんはこんな小さいと言うのですから。本当に、言うなら、まあ、血の涙でもよいところでしょうけど、それに気丈な方です、しっかりした方なんです、やはりね。
いわゆる、その、泣くがいいの、泣いて、その、ああして泣かんがいいのという意味じゃないですけれども、私出掛けには、やらして頂くことを神様にお届けさせてもらいましたが、あの、水仙の葉ばっかりのところを頂きます。言うならば、花が咲いとらなければいけんのですけど、花がない。だから、水仙の花が、こう、生き生きと青々としておるということは、まあ、(元気な?)という意味だろうと思うんです。やっぱり、家族の方達が気丈に話されますから、もう、非常にその、(元気?で?)おられた。その、出しなさいますけれども、そういう、例えば悲しい中にあってもです、やはり、喜びというものは、いつでもどこでも持っておらなければならないと、私は思うですね。
だから、信心させて頂く者は、そこんところを頂いておらなければ、信心の値打ちはないです。もう、何かにぶつかったら、もう、真っ暗いばっかり、何かにぶつかったら、もう、悲しいばっかりというのならですね、もう、その信心は大して役に立っとらんのです。ね。
高橋まさお先生の言葉じゃないですけれども、教祖我を救える、とこういうような言葉。本当に、教祖我を救いるというような、教祖の神様のお取次によって、助けられておる者の姿と思われないですね。どういう中にあっても、どういう中にあっても。で、私、今日はそのことを色々お話の中にですね、本当に、こういう大変なことでしたけれどもですね、
もう、考えてみなさったら、こういう立派なお家も買って行きなさったし、たくさんの財産もしだしてお出でられたし、もう、その思いなさると、しかも、こういう後継ぎの子供さんまでお在りになるし、おばあちゃんは年はとっておられるけれども元気だし、嫁さんは、後はお百姓さんですから、やっておいでられるのに、(言葉が危ないように?)やっても行けられる見通しもお付になっておられるし、もう、本当に、まあ、そのことは悲しいことだけれども、考えてみると、おかげを頂いてなさるとですよち言うて。
もう、その、昔から善導寺の教会に時々参られるんですよね。ですから、私の話は分かられるだろうと、こう思うんです。そしたら、初めて涙をぽろぽろ流されました。ほんなこっですの、私どんな(こぎまぎれちから? )ばっかり受けて、その、もう、やっぱり言うならば、涙を流しちゃならんと、気丈にしとかんにゃばのと、こういう元気が甘味だしとるというだけであってですね、ほんに先生、話を聞かせて頂く、ほんにそげんですもんねち言うちから、喜ばれましたが。
そういうことが、信心を頂いて、本当に神恩報謝の生活と言うか、神様の本当のおかげを頂かなければ立ち行かないということが分かっておらなければ、それは出てこないと、こう思うです。ただ、この、おかげを頂くというだけの信心では、それこそ、やっぱり、いよいよ悲しい時には悲しいのであり、目の前が真っ暗になる時には、目の前が真っ暗になって、迷わなければいけないという程度の信心ではつまらない。
どういう中にあっても、どういう暗い思いをするなかにでも、暗い思いをせんで済む。ね、それでいて、涙を流す、それから、元気にしておる。それは、もう、どうだっちゃいいですね、その人の心の強い弱いですから。けれども、どんなに涙を流しとっても、泣いとってもいいから、そこには、それでもおかげを受けておるということのですね、喜びというものを持っとかなければですね、信心の値打ちはないという風に、それは感じるですね。
それは、もう、本当に気丈な方達ですね、嫁さんでもおばあちゃんでも、ね。ちょうど、あの、岩部さん、ご用に来てお出でられて、その話しをさせて頂いたら、本当に、やっぱ岩部さんもそれを感じられるくらいにですね、やっぱり、お葬式の時に、もう、本当に他の方達が泣いておられると、もう、そんなんじゃ出けんという風に言うて、その、言われるくらいです、おばあちゃん達を。そんくらいに、気丈な方です。
けれども、やっぱり、一生懸命、こう、母に応えて、まあ、元気を出しておられるだけのことであるから、ある意味、例えば泣いてもいい、どうでもいいけれどもです、そこに、私は信心の喜びというか、信心の喜びということは、本当に神様のおかげの中にあるということをです、実感させて頂いて。
これはこうだけれども、あれもおかげ、おまけには、これもおかげというようにです、おかげの世界におることを私どもが分からせて頂いておる信心。どういう中にでも、喜びを失わない信心を頂いておきたいもんだと、また、それを、今日私、いよいよ実感させて頂いたんですけどね。それは、信心頂いておるというだけじゃいかん。やっぱ、そこまで信心を進めさせてもろうて、喜びを頂いとかなければならんということですね。どうぞ。